 

戦後、昭和21年に農林省よりトヨタKC型4tトラック新車の配給を受け、昭和23年にはトヨタトヨペットSB型トラックを購入し、また、昭和25年頃ジープの払い下げも受け、これらにより機動的なより広範囲にわたる営業活動が可能となりました。また、朝鮮動乱が勃発した昭和25年にときの連合軍マッカーサー司令部(GHQ)から鉄道施設用の枕木を韓国に輸出するように指令を受け、工場は繁忙を極めました。昭和27年には現在地より約400m東寄りの水田約20,000坪(66,000u)を購入し、建坪4,000坪のフローリング及びサンダル工場を総工費約1億円(当時)で建設するのと併せて、新製品開発のため県庁より井上技師を技術指導員として迎えました。当時の従業員は約200名でした。
生産した商品の大半はフィリピンに輸出されましたが、折悪しく、昭和31年4月同国内において発生した日の丸旗焼失事件に端を発した国際緊張に巻き込まれ、輸出が全面ストップとなり代金が回収不能となりました。そのため、半年ほど事業活動を停止せざるを得なくなり、なお4800万円(当時)の負債を背負うこととなりました。その折に、鳥取県経済連の横川専務の肝煎りにて伊藤部長が米子市内の三光荘における債権者会議(約150名)に派遣され、全てのことについて鳥取県経済連が責任をもつので再建させてもらいたいと債権者を説得されて、漸く債権者組合の設立がなされました。その債権者組合の構成員として、まず組合長に高林健治氏、顧問として、遠藤光徳先生(米子市名誉市民)、土谷栄一県会議長、相談役として阿部三代治先生、塩谷為吉社長など蒼々たるご先達がおられました。
まさに急転直下、奈落の底へとはこのことでしょう。社会の手厳しさと一方で人の情けを知りましたが、このとき、涙というものは目から流れるばかりだけでなく、堪えているとピュッと飛び出すものだと初めて知りました。家の再興、会社の再建などとてもおぼつきません。気力が萎え始めたとき、妻のひとことが胸を打ちました。「8人兄弟姉妹の中で男が3人(兄は昭和20年7月ビルマで戦死しました。)、弟はまだ子供だからアナタががんばらなきゃ誰ができるの、やってみたら!」当時27歳であった私はこの言葉に一念発起、好きな囲碁や将棋、麻雀、パチンコ、ゴルフなどの娯楽を一切断ち、楽しみは読書一本に絞り、全精力を事業に注ぎ込みました。(今でもテレビの相撲や野球などはみません。)思えば、今でもあのときの妻の励ましがなければ現在の自分はなかったとつくづく思います。
横川専務はさらに、昭和32年に鳥取県経済連の業務部長などを歴任され『カミソリアズマ』として評判の高かった東春蔵氏を支配人として、弊社に派遣されました。当時従業員は10名に過ぎませんでしたが、不要不急の資産を処分し、4千坪の建物等は島根県八束郡揖屋町にあった旧佐藤造機株式会社(現、三菱農機株式会社)に買い取り移設してもらうなど対策に努める一方、全員一丸となって努力した甲斐もあり、昭和35年の暮れには一般債権者に対する債務1,800万円を完済することができました。東支配人はその年に退任されていかれました。そのとき、富士銀行、烏取銀行、山陰合同銀行等に約3,000万円の銀行債務が残りました。
創業以来一貫して農家を相手の事業をしてきましたが、昭和30年初期の農家の主産物である米作りに今後一番必要になってくるものをと考えていくと、“米”という字は八十八と書き、この数字のとおり一粒のモミが八十八倍の“米”になるとか、また八十八回手をかけるとかいい、事実、農作業において“運ぶ”という仕事は大変なことで、言い換えれば農作業の大半は運搬作業といっても過言ではなく、既にぼつぼつ使われていた動力耕運機、テーラーなどの動力を利用した運搬車、トレーラーを使うときが必ず来ると考えたので、これに着手し、同時に人力の一輪車・二輪車の製造、販売も始めました。
昭和38年には鋼板製トレーラーにメタリック銀粉焼付塗装を施した『河島式トレーラー』が市場で好評を博し、それを機に全農(旧全購連)の会長を兼務されていた三橋誠鳥取県経済連会長(昭和31年から47年まで4期連続会長を務められた。)を筆頭に、伊藤部長、市村課長、戸川支所課長などの方々のお力添えをいただき、既存の烏取、島根両県に加え、岡山、広島、山口、愛媛、香川、兵庫の各県経済連との取引が開始され、8県の経済連よりご愛顧をいただくようになりました。その増産に対応するため、従業員を80名に増員し、フル操業を続け、生産台数は月産600台、年産7,200台となりました。債権者各位のご協力をいただくとともに、烏取・島根・岡山各県経済連の全面買い上げと翌月現金支払いという格別のご協力をいただいたので、数年後には債務も全額返済できました。(これを機会に現在でも烏取銀行一行のみお世話になっています。)この頃、父利一郎は80歳近い高齢で老衰のために足も立たなくなっておりましたが、私は父を背負って工場の中を回って見せてやりました。父の知らない機械もあり、以前の工場と全く見違えるように活気もあり、非常に喜び、また安心しておりました。
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