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このあゆみは、平成6年5月15日に「鳥取県経済農業協同組合連合会」より発刊された「鳥取県経済連農業機械史」(全471ページ)に15ページにわたり掲載された弊社の社史に基づき加筆再構なしたもので、一地方の犂(スキ)メーカーから現在の地位にまで成長させていただいた弊社の歴史をみなさまにお伝えしたいと思います。
創業者である父河島利一郎は、明治23年(1890年)4月岡山県真庭郡湯原町豊栄887(現、岡山県真庭市豊栄887)の河島家次男として出生しました。その湯原町は、元美作の国で彼の剣豪宮本武蔵の出生地でもあり、古来より武術の盛んな地でした。利一郎も若年より武術に勤しみ、25歳で剣道(武徳殿)4段、柔道(講道館)4段の免許を有しました。長男八十八(やそはち)は若くして大阪にて勉学に励み、南海電鉄の技師長まで勤めていたため、旧姫路師範学校の武術の教鞭をとっていた利一郎が29歳のとき家業を継ぎ事業を始めるため湯原町に戻り、農業の傍ら雑貨商を始めました。
当時の農機具であった犂があまりにも実用性に乏しく幼稚なのをみて、師範学校勤務の傍らその研究を進め、数種の特許を取得し、大正7年(1918年)7月利一郎30歳のとき個人営業で、弊社の前身となる『河島式農具製作所』を興しました。当時の製造品目として、河島式単用犂甲号、乙号がありました。商いは順調に推移し、大正年間には年商10万円(当時)の取引を行うに至りました。その頃、湯原町と鳥取県西伯郡溝口町(現、鳥取県西伯郡伯耆町溝口)、鳥取県米子市の3ヶ所に工場をもっており、その巡回で中国山脈越えを余儀なくされましたが、道中の危険対応のために警視庁より拳銃の携帯を許されました。
父利一郎は、その後の更なる事業の発展を期して昭和8年現在地の鳥取県米子市道笑町2丁目61番地に進出しました。社名も『河島式農具製作所』の“式”を取り払い『河島農具製作所』と改め、製造品目も従来の犂に足踏み稲麦扱機(脱穀機)、牛馬用鞍を追加しました。当時の従業員は約30名でした。
昭和12年日中戦争勃発を契機に、陸軍より軍が満州(中国東北部)で使用するための雪用スキーの製造を受託しました。既に弊社は当時の農林省及び商工省の重要指定工場であったので、昭和19年には軍からの要請で軍馬用の馬車、弾薬及び弾薬箱を製造しました。その増産のため、米子商蚕学校(現、米子南高等学校)の学徒動員80名、さらに徴用工を100名受け入れ、また、軍からトヨタの4tガソリントラックの供与を受けました。当時軍からは松原中尉が監督官として派遣され、弊社は戦時中のわが国において最優先の生産品目であった軍需品の製造と、食糧増産のための農機具の製造という2頭立てをもって、国のために尽くすべく少なからず精進しました。
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戦後、昭和21年に農林省よりトヨタKC型4tトラック新車の配給を受け、昭和23年にはトヨタトヨペットSB型トラックを購入し、また、昭和25年頃ジープの払い下げも受け、これらにより機動的なより広範囲にわたる営業活動が可能となりました。また、朝鮮動乱が勃発した昭和25年にときの連合軍マッカーサー司令部(GHQ)から鉄道施設用の枕木を韓国に輸出するように指令を受け、工場は繁忙を極めました。昭和27年には現在地より約400m東寄りの水田約20,000坪(66,000u)を購入し、建坪4,000坪のフローリング及びサンダル工場を総工費約1億円(当時)で建設するのと併せて、新製品開発のため県庁より井上技師を技術指導員として迎えました。当時の従業員は約200名でした。
生産した商品の大半はフィリピンに輸出されましたが、折悪しく、昭和31年4月同国内において発生した日の丸旗焼失事件に端を発した国際緊張に巻き込まれ、輸出が全面ストップとなり代金が回収不能となりました。そのため、半年ほど事業活動を停止せざるを得なくなり、なお4800万円(当時)の負債を背負うこととなりました。その折に、鳥取県経済連の横川専務の肝煎りにて伊藤部長が米子市内の三光荘における債権者会議(約150名)に派遣され、全てのことについて鳥取県経済連が責任をもつので再建させてもらいたいと債権者を説得されて、漸く債権者組合の設立がなされました。その債権者組合の構成員として、まず組合長に高林健治氏、顧問として、遠藤光徳先生(米子市名誉市民)、土谷栄一県会議長、相談役として阿部三代治先生、塩谷為吉社長など錚錚たるご先達がおられました。
まさに急転直下、奈落の底へとはこのことでしょう。社会の手厳しさと一方で人の情けを知りましたが、このとき、涙というものは目から流れるばかりだけでなく、堪えているとピュッと飛び出すものだと初めて知りました。家の再興、会社の再建などとてもおぼつきません。気力が萎え始めたとき、妻のひとことが胸を打ちました。「8人兄弟姉妹の中で男が3人(兄は昭和20年7月ビルマで戦死しました。)、弟はまだ子供だからアナタががんばらなきゃ誰ができるの、やってみたら!」当時27歳であった私はこの言葉に一念発起、好きな囲碁や将棋、麻雀、パチンコ、ゴルフなどの娯楽を一切断ち、楽しみは読書一本に絞り、全精力を事業に注ぎ込みました。(今でもテレビの相撲や野球、サッカーに至るまで全てのスポーツを見ません。見ると言えば、ニュース、天気予報、大河ドラマです。)思えば、今でもあのときの妻の励ましがなければ現在の自分はなかったとつくづく思います。
横川専務はさらに、昭和32年に鳥取県経済連の業務部長などを歴任され『カミソリアズマ』として評判の高かった東春蔵氏を支配人として、弊社に派遣されました。当時従業員は10名に過ぎませんでしたが、不要不急の資産を処分し、4千坪の建物等は島根県八束郡揖屋町にあった旧佐藤造機株式会社(現、三菱農機株式会社)に買い取り移設してもらうなど対策に努める一方、全員一丸となって努力した甲斐もあり、昭和35年の暮れには一般債権者に対する債務1,800万円を完済することができました。東支配人はその年に退任されていかれました。そのとき、富士銀行、烏取銀行、山陰合同銀行等に約3,000万円の銀行債務が残りました。
創業以来一貫して農家を相手の事業をしてきましたが、昭和30年初期の農家の主産物である米作りに今後一番必要になってくるものをと考えていくと、“米”という字は八十八と書き、この数字のとおり一粒のモミが八十八倍の“米”になるとか、また八十八回手をかけるとかいい、事実、農作業において“運ぶ”という仕事は大変なことで、言い換えれば農作業の大半は運搬作業といっても過言ではなく、既にぼつぼつ使われていた動力耕運機、テーラーなどの動力を利用した運搬車、トレーラーを使うときが必ず来ると考えたので、これに着手し、同時に人力の一輪車・二輪車の製造、販売も始めました。
昭和38年には鋼板製トレーラーにメタリック銀粉焼付塗装を施した『河島式トレーラー』が市場で好評を博し、それを機に全農(旧全購連)の会長を兼務されていた三橋誠鳥取県経済連会長(昭和31年から47年まで4期連続会長を務められた。)を筆頭に、伊藤部長、市村課長、戸川支所課長などの方々のお力添えをいただき、既存の烏取、島根両県に加え、岡山、広島、山口、愛媛、香川、兵庫の各県経済連との取引が開始され、8県の経済連よりご愛顧をいただくようになりました。その増産に対応するため、従業員を80名に増員し、フル操業を続け、生産台数は月産600台、年産7,200台となりました。債権者各位のご協力をいただくとともに、烏取・島根・岡山各県経済連の全面買い上げと翌月5日現金支払いという格別のご協力をいただいたので、数年後には債務も全額返済できました。(これを機会に現在でも烏取銀行一行のみお世話になっています。)この頃、父利一郎は80歳近い高齢で老衰のために足も立たなくなっておりましたが、私は父を背負って工場の中を回って見せてやりました。父の知らない機械もあり、以前の工場と全く見違えるように活気もあり、非常に喜び、また安心しておりました。
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昭和40年6月、不運にも増設工事現場での溶接作業による火花が塗装工場に引火して工場の大半を焼失し、さらに近隣の民家4件をも全半焼させるに至りました。早速、まず民家の新築を最優先させ、入居を見届けた上で新工場建築に着手しました。設計・施工は鳥取県経済連農機施設課にて進めていただきました。大火後の復旧作業の折には、県経済連米子支所の前田資材課長(当時)以下多数の職員の皆様に多大なるご援助を賜りました。大火後の奮闘については、言葉に言い尽くせない苦労もありましたが、皆様方のご理解と社員一同の努力の甲斐あって、昭和42年には米子税務署より念願の準優良法人の指定を受け、その後8年間準優良法人を維持しました。その後現在まで35年間優良法人を維持しています。
昭和43年頃となるとトレーラーの最盛期も漸く過ぎ、機能面での見直し要望が高まり、弊社はいち早く、小回りの利く自走式の動力三輪車の開発に励みました。そして、昭和43年にはパイプ式車体を年間300台販売、昭和45年には鋼板製荷台付き動力運搬車を年間700台販売しました。これらの新商品は発売以来好評を博し、昭和50年には年間3,500台へと急成長しました。また、同年には米子税務署の優良法人にも昇格し、表彰を受けました。なお、優良法人については昭和56年、昭和61年、平成7年、平成14年と継続して表彰を受け、現在に至っています。このことは弊社の誇りであり、今後も必ず継続していきたいものだと考えています。
さて、時代の変遷とともに、より高性能の機械の開発が期待され、それに応えるためには道路交通法並びに車輌運送法に則った運輸省(現、国土交通省)認定の小型特殊自動車の製造が不可欠であり、新工場の建設及び生産設備の増設、技術開発要員の質・量両面の充実が急務となりました。需要も順調に伸び、年々安定した生産量の確保がなされるようになったので新工場建設に着手し、昭和51年第1期工事完了を手始めに昭和60年の第4期工事の完了をみるまでになりました。(その総工費は約20億円。)さらに生産量を拡大するため一行取引である烏取銀行田川頭取に相談したところ、同頭取が三和銀行営業本部長時代に懇意であったヤンマー農機株式会社(現:ヤンマー株式会社)のトップに話が繋がれ、有限会社河島重工業(昭和39年1月設立。代表取締役河島髑・)との取引が進められることとなり、昭和53年に『ヤンマー農機株式会社(現:ヤンマー株式会社)』とのODM取引が開始されました。以降、国内での販売が順調に推移し、品質・性能ともに市場の評価が得られるようになりました。
他面、海外からの引き合いが多々寄せられ海外にも目を向けることとなりましたが、平成4年度の総出荷台数約16,000台のうち、輸出の占める割合は12.5%でした。幸いにして、欧米を始め世界各地からの引き合いが現在も活況を呈しており、経営戦略上から、また固定費吸収の面からも今後とも拡販にさらに努力していきたいと考えています。先にも述べましたが、旧満州の地に昭和12年には既にスキー板の出荷を行い、その後も戦時中一貫して当時の農林省及び商工省の重要指定工場であった関係から軍馬用の馬車及び弾薬や弾薬箱をも製造・販売しており、昭和25年朝鮮動乱ときには韓国へ枕木を輸出、またフィリピンへも日本国旗焼失事件が発生するまで輸出していた経緯もあり、その当時から、わが国にも技術力・生産力さえつけば、他国に充分伍していけるものと考えていました。否、わが国は輸出の伸展がなければ、復興もままならぬと信じていたひとりです。ご高承のとおり、愚見が現実のものとなり経済大国となりましたが、私自身についても輸出への灯がいやさかに燃え上がったわけです。もともと輸出に対する関心は、若年の頃より高かったほうではないかと思います。
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取得した国内外のパテントは現在280件余に及び、独創技術を追求し続け、製品に反映された研究成果は、全国はもとよりフランス・イタリア・ドイツ・スイスなど欧州各国と海外各地にも輸出されています。わが国の農業の軽労働化を可能とする動力付運搬機の構造に関する様々な開発、また、果樹園における作業能率と安全性を向上させる高所作業車の構造に関する開発など、重労働とされてきたわが国の農業の省力化に少なからず貢献してきたと自負しています。
昭和56年に第1回科学技術庁長官賞を受賞したのをはじめ、昭和52年より社団法人発明協会の発明表彰において特許庁長官奨励賞や日本弁理士会会長奨励賞など毎年、各賞を頂いております。また平成8年には多年の発明功労により栄誉ある黄綬褒章を、そして平成16年には旭日雙光章の受章の栄に浴しました。このことは弊社の全従業員が一丸となって今日まで努力精進を重ねてきた賜物であるといつも深く感謝しています。
品質面においては、平成26年に世界共通の品質規格であるISO9001を認証取得し、財務面においては昭和50年に米子税務署より経営内容と税務申告が特に優良と認められ、優良申告法人の表敬状を頂き、現在も継続して表彰されています。
私は常々“農は国の基なり”と言ってきましたが、古来より農業(食糧)をないがしろにした国で繁栄を続けた国はありません。現に先進工業国は全て農業大国でもあります。21世紀の食糧危機に備え、食糧増産に対処しなければなりません。運搬車の“運”という字は“運ぶ”という字で、その“運ぶ”車を作って“運”良く今日に至りましたが、今後とも横車を押さないよう真っ直ぐに車を押して二度と火の車にならないように精進したいと思います。また、弊社は創業以来一貫して農にこだわり、農に関わってきましたが、座右の銘であります“一志一道”を肝に銘じ、今後とも創業者の精神を引き継ぐとともに、世界に通用する製品を作るべく誠心誠意精進し、次世代にバトンタッチしていきたいと考えています。